「ウサギの島」「地図から消された島」「毒ガスの島」・・・いずれも瀬戸内海に浮かぶ大久野島の別名です。この5月、広島で行われた日本産業衛生学会の企画でこの島を訪れる機会がありましたので、簡単にご紹介します。
大久野島は瀬戸内の澄み切った海とサラサラとした砂浜に囲まれた、周囲4kmの島です。定住者はいませんが、休暇村があり多くの観光客が訪れています。島へは忠海駅(JR呉線)から歩いてすぐの港から、フェリーで渡ることができます。
島に上陸し道を進んでいくと、四方八方からさっそくウサギたちが集まってきます。ウサギたちもちゃんと人を見ているようで、特に手に袋を提げた人の周りにはよく集まっています。島に住んでいるウサギは900羽ともいわれていましたが、コロナ禍による観光客の大幅な減少でエサ不足となり、400羽近くまで減少してしまいました。ここ最近は客足の戻りでウサギの数もまた増えつつあるのか、あちこちに掘られた巣穴のなかに子ウサギの姿を見ることができました。
大久野島を散策すると、ウサギと美しい自然に交じって、そこここに古びた構造物をみることができます。島には明治期から瀬戸内海防衛のために砲台が設けられていましたが、1929年から陸軍がこの島全体を管理し、秘密裏に毒ガスの製造を開始しました。島の存在自体も地図から消され、島内には工場や貯蔵庫、研究所や発電所まで整備されました。最も多い時期には6000人以上もの人々が動員され、青酸ガス(細胞呼吸を阻害)、イペリット(びらん性)、ルイサイト(びらん性、ヒ素化合物)などの製造に、そうとは知らされずに従事していました。
負の教訓を遺すために建てられた毒ガス資料館では、当時の製造設備の一部や防護服が展示されています。腐食を防ぐための陶器製の設備、厚手の布とゴム、ガラスだけで作られた防護服をみると、当時の作業環境がいかに有害なものであったかが伺い知ることができます。戦後、製造設備は破壊され、毒ガスや原料は焼却、海洋投棄、埋没により処理されましたが、製造に従事した人や遺棄された砲弾に接触してしまった人は、その後も長く呼吸器障害などの健康被害に苦しんでいます。科学技術、化学物質への向き合い方を誤ったとき、何が起きるのかを突き付けられた思いでした。
毒ガス障害による犠牲者を悼む慰霊碑の前では、ウサギが静かにエサを食べていました。ウサギたちは1970年代に島に放たれた数羽が繁殖したものです。ウサギたちがヒトの営みをどのように見ているかは知る由もありませんが、フェリー乗り場付近のウサギたちはすでにエサにも食傷気味のようで、島を後にする私たちを寝そべりながら見送っていました。
「健康さんぽ103号」
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